2015/02/23

パラグアイは優しさの国だ。

パラグアイは優しさの国だ。

旅の疲れをこの大自然が癒してくれる。

癒し以外、何もない。

それがパラグアイだ。

民宿小林に3泊だった予定も、気が付けば5泊。

しかも、自分達では4泊しかしていないと思っていたのが恥ずかしいかぎり。

民宿小林にいた5日間。

特に何をしたというわけではない。

というか、周りに何もないのですることもない。

本当に心からのスローライフを味わうだけなのである。

自然に一番近いところで生きる。

それだけで心洗われる。

朝日を浴びて、飯を食って、風を感じて、釣りをして、馬に乗ったり、毎日違う夕焼けを見て、皆で寝転びながら星空を見る。

そして、寝る。

その単純な生活の中にいても、何もないという環境が自分の普段使われていない感性を刺激する。

雲の流れ、草木の揺れ、花の形、土の匂い、星の美しさ。

いつも身近にあるものはずなのに、遠くに感じているものを愛おしく想える。

もう一度、生きる上で本当に豊かにしてくれるものを教えてくれる。

そしてその全ては、このパラグアイの大地と民宿小林のお父さん、お母さんの心からのホスピタリティによるもの。

本当に優しい。

そして毎日作ってくれるご飯が最高に美味い!!

僕らがいた5日間でも、カレー、アサード(アルゼンチン風BBQ)、蕎麦、すき焼きとえげつないメニュー。

しかも全て500円でえげつない量!

で、毎度毎度、何かしらのサービスの品を付けてくれる。

貧乏バックパッカーには本当にありがたいとしか言いようがないのである。

そういう優しさはきっと、辛さを知ってるからできるんだと感じる。


このパラグアイのイグアス居住地への移住は戦後の日本で行われた改革の一つ。

パラグアイという所は物凄く素敵な楽園ですよ〜、移住しませんか〜??

ってな具合に言ってたらしいけど実際は、

日本が敗戦した為、択捉や満州や世界各地にいた日本人を母国に戻さなければいけなくなった為に、敗戦して金がない日本国は国民を養うことができなくなったのが理由だそう。

けどそんなこと公にするはずもなく、移住は素晴らしいですよーってことを吹き込んでいたので、その政府の口車にうまいこと乗せられてここへやってきた!!ガハハっ!!

と、50年前に移住した小林のお父さんの義理のお兄さんが笑う。

政府は、移住地は既に整っているとでまかせをいい皆を日本からアルゼンチンのブエノスアイレスまで船で運んだ。
48日かけて船底で波に揺られ、船酔いになりながら耐えながら渡った。その時飲んだオレンジジュースの味、初めて黒人を見た時の衝撃、物資供給などの為に港に着いたほんの数時間で行ったパブでのダンス、見ず知らずの日本人が自由に食べてくださいと出してくれたご飯。
そんな経験をしながら着いたパラグアイ。
政府がいう場所はどこにもなかった。
あるのはただのジャングルだった。
木を切り家を作るところから始まった。
毎日蛇とネズミとの戦いだった。
それでも日本人は働き者だから、毎日必死で働いた。
けど働けば働くほど次々と人が死んでいった。
そして沢山の人がこの場所から逃げ出した。
それでも働いた。
次は働けば働くほどお金が無くなっていった。
その頃は大豆しか作る手立てがなかった。
なんとかして大豆を作っては売りに行った。
けど赤字にしかならなかった。
そんな時助けてくれたのは結局、日本の政府だった。
努力のかいあり、作った大豆を日本政府が高く買ってくれた。
今では自分たちの手でなんでも作り、電気も水も食料も日本にいた頃より不自由ない暮らしができているが、ほんの15年ぐらい前までは電気もなかったよと語ってくれた。

民宿小林のお父さんお母さんがこの地に来たのも小学2年生ぐらいの時らしい。

今の生活からは感じることのない苦労。

その壮絶な苦労の果てに、その優しさがある。

なぜなら、苦労を乗り越えられたのは結局のところ人の繋がり、人の助けだったから。

と教えてくれた。


凄い話を聞くことが出来た。

生きた話だった。


そういうことからもう一度言うが、

パラグアイは優しさの国だ。


南米に来たら寄るように。

これは命令である。

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